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久留米時代とチェッカーズ(長編)

今回は僕の故郷にまつわる話を書いてみます(かなり長編になってしまいました)。

僕の故郷は、九州の福岡県久留米市です。
城下街で絣(かすり)とゴムが有名な街、現在の人口は約30万人です。
僕はこの街で生まれ、高校卒業までこの街で暮らしていました。

久留米で有名な方は、産業界ではブリジストン創業者の石橋正二郎さん(故人)。石が「ストーン」、橋が「ブリッジ」、それで「ブリジストン」ですね。
芸能界では、「上を向いて歩こう」の中村八大さん(故人)、鮎川誠さん(シーナ&ロケッツ)、石橋陵さん(俳優・元ARB)、黒木瞳さん(女優)、藤吉久美子さん(女優)、松田聖子さん(歌手)、チェッカーズ(バンド)、田中麗奈さん(女優)。
またミュージシャンでは、ドラマー佐野康夫君(ドラムマガジン5月号の表紙)、ギター&ウクレレの近藤研二君(栗コーダーカルテット)。
スポーツ界は、中野浩一さん(自転車)、坂口征二さん(プロレスラー・俳優の坂口憲二さんのお父さん)、といろいろな人がいます。

僕が中学~高校の頃、同じ時代を過ごしたのは、チェッカーズの面々。中でもフミヤさん・モクさんは同じ中学校で2つ先輩、ナオちゃんは同級生で中学3年の時に一緒に文化祭で演奏しました。
当時ナオちゃんはまだサックスではなくベースでしたね。
また佐野君は高校の1つ後輩で、大学時代まで一緒にバンド活動していました。
当時、久留米の中学生ドラマーで1・2の座を争っていたのが、徳永君(チェッカーズのクロベエ・故人)と佐野君でした。2人ともブラバン出身。
近藤君は、僕の2つ年下で中学3年生の時にイカシた4人組みのロックバンド(ダブルウィンク)を作っていました。

久留米には、ヤマハ系の楽器店が2つあり、毎年夏には九州ブロックのヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト「L-Motion」が開催されていました。
東京では、「EastWest」でしたね。
このL-Motionのジュニア部門(20歳未満)の決勝大会に久留米代表として選ばれたのが、’81年は「チェッカーズ」と「ダブルウインク(近藤君のバンド)」と「シュー(佐野君&僕が翌年入るクロスオーバー系バンド)」というバンドでした。
この年の決勝大会では、チェッカーズが見事ジュニア部門グランプリ。
そして、たまたまこの年は、ヤマハ合歓の里で全国大会「LMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」が開催されました。
ここで、何とチェッカーズがジュニア部門グランプリ、そしてシニア部門でも審査員特別賞を受賞しました。

さて翌’82年の久留米代表は、2年連続でチェッカーズを除いた同じバンド、「ダブルウインク」と「シュー(ドラマーが佐野君、ギタリストが僕に交替)」でした。
チェッカーズは既にゲスト扱い。ヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンとの契約話が進んでいた頃です。
「シュー」は、ギター・キーボード・ベース・ドラムの4人組のクロスオーバー系バンド。使っている楽器は全員ヤマハ(笑)。
僕のギターは赤い「SG-1000」、キーボードはエレピの名器「CP-80」、ベースはサンバーストの「BB-1000」、佐野君のドラムは「YD-9000」。
皆バイト頑張ったんです。でもこれじゃ、まるでヤマハの広告塔、楽器店の思うツボですよね(笑)。
だから、当時ヤマハの人は僕達たかだか4人の高校生をとても可愛がり、大事に扱ってくれました。九州の高校生版「カシオペア」として(笑)。

当時の久留米は、アマチュアバンドが隆盛、たくさんのバンドが存在していました。ロック系のバンドがほとんどです。
そんな中、僕達は高校生の割りには難しいクロスオーバーやらジャズやらを生意気そうにやっていました。
しかし当時の久留米のアマチュアバンド界は、アメリカン・グラフィティさながらにいわゆるドゥワップ系ロックンロールバンドが全盛。
市内には何と20バンド以上も存在していました。皆、お決まりのスタイル。髪の毛はリーゼントで洋服は黒いタキシードに蝶ネクタイです。
歌うのも、コースターズ(’50年代にノベルティソングで人気のあった黒人ドゥワップ系ロックンロールバンド)とシャナナ(70年代の白人&黒人ドゥワップ系ロックンロールバンド。映画「グリース」サントラに曲あり)が中心。
市内の小ホールでは、毎週末にダンスパーティが開かれていました。

このダンパのバンドの中で最もイカシていたのが、チェッカーズでした。
彼らはコースターズの英語の歌詞を変え、オリジナルの日本語の歌詞でコミカルさも加えて歌っていました。
16fumiyaそもそもフミヤさんは、中学3年の頃にバンドを始めました。そのバンドはキャロルとクールスのコピーバンドでした。僕が生まれて初めて観た生ライブは、中学校の文化際でのフミヤバンドでした。
その後、フミヤさんは高校に進むと市内No.1のロックンロールバンド「カル・コーク」のサイド・ボーカルとなりましたが、あっという間に人気はメインボーカルよりも上になりました。
とにかく、他の誰よりも歌も踊りも上手かったし、顔も可愛かったので人気はNo.1でした。そして翌年の高校2年の時、チェッカーズを結成。結成当初は7人ではなくもっと大所帯(10人)でしたが、その内に例の7人になりました。

とにかくチェッカーズはショーの作り方が上手く、市内の商店街のイベントのような短い時間のステージでも、ちゃんと歌唱力のあるメインボーカルとコーラスを聞かせ、踊りも見せ、笑いも取る、3拍子揃ったバンドでした。
’81年にチェッカーズがヤマハの全国大会でスポットを浴びたのも当然だったかも知れません。
そのチェッカーズがヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンと契約し、’83年の3月末にいよいよ上京し、目黒のヤマハ音楽振興会の寮で生活を始めました。僕は同じ頃、大学進学で上京しました。

この頃、久留米の連中は、僕を含め「きっと、ラッツ&スター(当時:シャネルズ)の弟分のような位置付けで、ドゥワップ系ロックンロールバンドの本道を狙って売り出すんだろうな~。」と思っていました。
しかし、ヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンが狙ったのは、そうではありませんでしたね。
’83年の9月にデビューしたチェッカーズは、髪の毛がリーゼントでも、洋服が黒いタキシードに蝶ネクタイでもなかった・・・。
本人達も、最初はあのアイドル然としたスタイル(チェック柄の衣装、チェッカーズカット、ベレー帽)には相当抵抗感があったようです。

ここから先は皆さんがご存知のチェッカーズです。
でもこの時のヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンの最初の売り出し戦術が効を奏し、チェッカーズは’84に大ブレイク、結果として’80年代に一つの時代を築けたんだと思います。
’92年の解散時のいざこざや一昨年のメンバー内の確執話などもあり、良いことばかりではなかったはずですが、それでも皆本当に良く頑張っていたと思います。

やっぱり久留米の星です。チェッカーズ万歳!

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