回想録

想い出話~女子大生ブームの頃~

ずっとずっと前の話ですが、僕がまだ学生の頃、毎週土曜日の深夜、フジテレビの「オールナイトフジ」という女子大生がキャストの番組がありました。

当時、”女子大生ブーム”というのがあったんですね。
今から思えば、何でそんなのがブームになったのか良く分かりませんが。

そんな中、僕は当時六本木では割と有名だった女子大生パブ「○○っ娘倶楽部(明るくて面白いお店でした~)」にて、バイトでギターを弾いていました。

50's~60'sのソウルナンバーを演奏していたんです。

しかし、普通のライヴハウスと違い、こういった所での演奏は、決してでしゃばり過ぎずにやらねばなりませんでした。

何せ、女子大生パブです。
お客さんは、女子大生とおしゃべりをしたい男性客ばかり。

そういうお客様に向かって、こっちはカッコつけてソウルナンバーを演奏していたんですが、いくら、こちらが好きなナンバーを熱~く演奏したとしても、お客さんが知らない曲だと大して盛り上がりません(笑)。

やっぱり、皆が知ってる曲の方が喜ばれました。

ソウルナンバーは、男性客よりはむしろ働いていた女子大生のコにウケてました。

しかし、最近僕はいろんなユニットのライヴで、本当に温かいお客様が場を盛り上げてくれる事に大変喜びを感じています。

これが、いつまでどこまで出来るかは自分への挑戦ですが、やれるだけ頑張りたいです。

何故か、女子大生ブームを振り返りつつ、しみじみと思いました。

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のっぽのサリー!

僕は、中学生の時、初めてバンドを組み、中学校の文化祭で演奏したのが初ライヴでした。

対バンのベースは、あの元チェッカーズのSAXだったナオユキ君(同じ中学校の同級生)。

僕のバンドはTHE BEATLESのカバー他。
ナオユキ君のバンドはキャロルとクールス(国産ロックンロールの代表的存在)のカバー。

ナオユキ君は当時はベースで、リッケンバッカーのベースを弾いてました。
僕は、黒いレスポールでした。

しかし、THE BEATLESとクールスは、実は同じロックンロールのカバーをやっていたんです。

それは、リトル・リチャードの「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」。
ハイトーンなシャウト!が魅力の曲です。

さて、今夜の荻窪アルカフェ「COYOTE」ライヴですが、「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」やるかもしれません!

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荻窪「金魚」のジャズ&ワイン

最近たまに、仕事帰りに荻窪の「金魚」というお店で、一人でジャズを聞きながらワインを飲み、美味しいおつまみを頂いています。

実は、このお店を僕に教えてくれたのは、あのスーパー・アコースティック・ソロギタリスト、堀尾さん。

今年の1月14日(成人の日)、堀尾さん&KEIちゃんが荻窪ルースター、よねっぴさん&僕が荻窪アルカフェでライヴとなり、皆でライヴ前に「金魚」で給油したんです(笑)。

その日以来、たまにこのお店に一人で行くようになりました。

一人で一日をリセットするために・・・。

しかし、何故お店の名前が「金魚」なんだろう?

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踊る回転オバサン(妙な思い出話)

突然ですが、これは妙な思い出話です。

僕がまだ19歳の頃、世田谷区某所の24時間営業のコンビニでアルバイトしてたんですね。
それも夕方から翌朝迄。

その店には、ほとんど毎日のように、深夜2時頃に来られる不思議なオバサンがいました。

そのオバサンは、お店のドアをくぐると、いきなりクルクルと回転しながら店内を一周。

レジに立っている僕に目を合わせながら、そのままお店を出て行っちゃうんです。
しかも、ほとんど何も買わずに。

深夜一人の時は、結構怖かったんですよ。
だって、最後に目を合わさないとお店を出て行かないんですから。

一体、あのオバサンは何だったんだろう?

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ペーパームーンと燃えよドラゴン

前回の母のピアノの話しに続き、今回も家族の話しです。

僕の兄は、格闘家です。

東京の中央線沿いのとある場所で中国拳法を人に教えて生活しています。

頭を丸くしており、腕は僕の足のフトモモより太いんです。

何故、ピアノの先生の母から、格闘家が育ったのか?

これは、本当にちょっとした事がきっかけでした。

それは、僕が小学3年、兄が小学6年の夏休みの時です。

福岡に住んでいた僕たちの所に、東京から叔母といとこが遊びに来ました。

そして、母と兄と僕、叔母といとこの5人で博多の中洲にある映画を見に行くことにしました。

見に行こうとしたのは、少女時代のテータム・オニール主演作「ペーパームーン」。
とても感動的な映画でした。

が・・・しかし。

いざ、中洲の映画館の前に行くと、「ペーパームーン」の隣で、何やら人でごった返している映画がありました。

それは、あのブルース・リー主演作「燃えよドラゴン」。

この「燃えよドラゴン」の看板の前で、兄は言いました。

「お母さん、僕こっちが見たい!」。

最初、母は反対しましたが、兄が引かないものであきらめ、結局兄は一人だけ「燃えよドラゴン」を見ることになりました。

そして・・・。
映画が終わった時、僕たち「ペーパームーン」側は「いや~、いい映画だったね~」と目をウルウルさせていました。

ところが兄は・・・。
既に目付きが険しく変わってました。

その日から兄の生活は一変。
大山倍達師匠の「極真空手」に通信生として入門。

家の中には、空手着やヌンチャクやらが散乱。

読むマンガは、梶原一輝の「空手バカ一代」。

翌年、兄が中学校へ上がった時、博多から東京迄の新幹線が開通。
夏休みにこの新幹線に乗って、父と兄と僕で東京へ。
兄が「極真空手」の合宿に参加するため、池袋の本部へ行きました。

その後、兄は「極真空手」から「マーシャル・アーツ(初代タイガーマスクの佐山悟さんがいた所)」へ。

最終的には、「中国拳法」へ行き着き、現在に至っています。

ホント、きっかけは「ペーパームーン」を見ずに「燃えよドラゴン」を見ただけなんですが・・・。

結局、兄も僕もピアノを弾かない兄弟となってしまい、母に寂しい思いをさせてしまいました。

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僕がピアノを弾けない訳

僕はピアノが弾けません。
これには訳があります。
それは・・・

僕の母はピアノの先生です。

ずっと昔、東京の音大を卒業後、NHKラジオ専属のピアニストになり、その後、福岡に帰って家に教室を構え、父と結婚。
数年前までは地元の女子大で音楽の教授もやってました。

高齢となった今でも、細々とですが、自宅でのピアノの先生は続けています。

つまり、母はピアノ一本でずっと生きてきました。
僕はそんな母に育ててもらったんです。

そんな訳で、僕は生まれて間もない頃から、家にあった2台の大きなグランドピアノの下に潜り、絵本やおもちゃを持ち込んで一日ピアノを聞いていました。

しかし、まだ特にちゃんとレッスンを受けてはいませんでした。

その後大きくなって、小学校2年生になった時、母から「今年、私の教室の発表会に出なさい。」と言われ、いきなりバイエルを渡されました。

この発表会というのは、毎年秋に開催する結構大きなホールでの会なんです。

僕は、言われるがままバイエルを始め、母の厳しい特訓が始まりました。

そんな中、母を取り巻く人たち(スポンサーのKAWA●楽器の営業、地元の楽器屋やレコード屋の店長、生徒さんの母親達)は、僕に過剰な対応をしました。

「先生の息子さんなんだから、大事にしなきゃ・・・」とばかりに、僕がピアノの鍵盤にちょっと触れただけで「きゃ~、お上手ね~。しんちゃん~。」てな感じ(笑)。

何か嫌だな~と思いつつ、その年の発表会に出ました。

今でも覚えていますが、ホールのステージに半ズボン姿で向かった時、異常過ぎる拍手が鳴り響いたことを。

実力なんて何もないのに・・・。
ただのプレッシャーにしかなりません。

その会に出た後、小学校へ行けば、音楽の先生には何かにつけ「ピアノを弾きなさい。」と言われるし・・・。

そんな訳で、次の年(小学校3年生)迄は我慢しましたが、その年を最後にピアノには一切手を触れないようになったんです。
つまり、ピアノを弾いたのは、たった2年間でした。

今考えると、母のピアノのおかげで生活出来たというのに、とても切ないものです。

しかし、やっぱりピアノは弾けるに越したことはありませんね。

今、僕の家には母が贈ってくれたピアノがあり、娘は幼少の頃から、もう10年近くピアノを弾いています。

でも、娘も最近はギターに興味があるようで、部屋で一人でiPodを聞きながら、激しくエアギターをやっている姿を何度か目撃しました(笑)。

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ジャズを始めた頃の話(第1回)

今、僕はアコースティックでジャズを演ってますが、これから僕がそもそもジャズを始めた頃の話を回想録として書いていきます。

僕は18歳の時、サザンの桑田佳祐さんみたいなミュージシャンに憧れ、自ら志望して同じ学校に入学しました。

そして、桑田さんが作った音楽サークルに入って、イカしたロックバンドを作ろう!と思っていたんです(最初は)。

しかし、いざそのサークルに行ってみたら、何かやたら軽そうな感じで「こんなんじゃ何かカッコ悪いな〜」と他を探すことにしました。

そうして、結局僕は何故か?ソウル好き、ブルース好き、ロックンロール好きの面白そうで濃い人達が集まっていた、何故か?「モダン・ジャズ研究会(いわゆるジャズ研)」という所に入ったんです。

高校生の頃、僕はロック&クロスオーバーばかり演っており、ギターは真っ赤なソリッド。
ジャズは、ウエス・モンゴメリーはとてもファンキーな感じがしたので好きでしたが、別に真面目にジャズを演ってはいませんでした。

大体、当時僕が好きだった音は、ディストーションやらディレイやらエフェクターをあれこれと繋いだやたらうるさいサウンド。

そんなある日、ジャズ研の部室でのセッション中、フルアコで真面目にジャズギターをやっていた大先輩に「お前な〜、ジャズでエフェクターを使ってんじゃねえよ!」とついに怒られてしまいました。

でもどうしても納得が出来ず、生意気にもいろいろ意見を言ったら、「じゃあ〜分かった。ただし3個以上はダメ!」という訳の分からない合意に至りました(笑)。

さて当時、ジャズの入門編として、Fコードのブルースというのを良く演りました。曲はチャーリー・パーカーのナウ・ザ・タイムとか。

ジャズは管楽器が主役だから、ギターみたいにキーがEとかAとかD(ギターの開放弦が使える)じゃないんですね。

僕は、中学生の頃からロックンロール好きで、3コードのロックンロールのレパートリーは沢山あったんですが、ジャズのブルースはどうもしっくり来ない。

かと言って、「クィ〜〜ン!」なんて気持ち良くチョーキング(弦を引っ張り上げる)すると、またさっきの大先輩が横で僕を睨みつける(恐)。

いやホント、何とも困ったジャズの始まりでした(笑)。

(次回へ続く)

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万歳!Jazz Big Band!

もう夏も本番ですね。

そこで、今回は90年代にフラッシュ・バックしてみます。

僕は、90年代の前半頃(’92年~’96年)、あるジャズ・ビッグ・バンドに参加しておりました。
このバンドは、16人編成(Horn陣が12名、リズム隊が4名(Guitar,Bass,Piano,Drum))と大所帯のバンドでした。

このバンドでは、僕はアーチドトップのアコースティック・ギター(いわゆるピック・ギター)を使い、ただひたすらにリズム・ギターを刻んでいました。元々そんなにジャズ・ビッグ・バンドに興味があった訳ではなく、ピック・ギターと”Mr.リズム”こと「フレディ・グリーン」というリズム・ギターしか弾かないギタリストに興味があったんです。 ジャズ・ビッグ・バンドに詳しい訳ではありませんが、ジャズ・ビッグ・バンドには、大きく2つの流派(?)があるようです。1つ目は「カウント・ベイシー派」、2つ目は「デューク・エリントン派」。僕が入っていたバンドは、「カウント・ベイシー派」でした。

本物の「カウント・ベイシー・バンド」は、それこそ半世紀近い歴史のあるバンドですが、ここでギターを弾いていたのが、「フレディ・グリーン(故人)」という人です。
この人のギターは、ピック・ギターを生音でひたすら「ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ、」と4ビートをコードで刻むスタイル。ソロなんか全くなし。
ホールでの演奏時もピックアップもマイクも使わず、ただ本当に生音だけ。
CDを聞いても、音はほとんど聞こえません。聞こえるのは、曲のイントロまた曲の途中でホーン陣がサッと引いた時ぐらいです。
ただ面白いのは、曲全体を通してこの人のギターは、活字で表現すると「ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、」という感じでバンド全体を引っ張る独特のグルーブ感を持っているんです。多分、ジャストではなく微妙なオフ・ビートなんでしょうね。

おかげさまで、ジャズ・ビッグ・バンド在籍中は「リズム」、「ビート」、「グルーヴ」というものを徹底的に学ぶことが出来ました。
とにかく、ひたすら4ビートで「ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ、」とコードワーキングしながら刻む。そしてドラム・ベース・ピアノに対し、オフビート気味で全体のリズムにビート感を与えていく。「ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、」というビートで。ギターソロなんて一切必要ありません。

このバンドでは貴重な経験もさせて頂きました。
芝公園のABCホールで行われた「スタンダードをあなたに」というコンサート(著名な日本のジャズ・ボーカリスト達が大勢集まりました)に参加し、ご年輩の男性ジャズシンガー、笈田敏夫さん(故人・4年前に亡くなられました。)のバックで「センチメンタル・ジャーニー」などを一緒に演奏しました。

実は、この時は良く存じ上げませんでしたが、笈田敏夫さんは「NHK紅白歌合戦」において昭和28年~34年迄の7年間連続出場、また石原裕次郎さんの映画「嵐を呼ぶ男」にも出演されていたんですね。
まさに日本ジャズ・ボーカル界の草分けであり、戦後の日本初の本格ジャズ・ボーカル・シンガーだったんです。
甘い低音を響かせる「クルーナー唱法」とよばれる唄い方は、フランク・シナトラやメル・トーメに代表されるアメリカン・スタンダード・ジャズの王道ともいえるものだったようです。
まさに戦後の日本にアメリカン・ミュージック(ジャズ~ポップス)を持ち込まれた第一人者だったんですね。

とにかく、このコンサートは、とても良い経験でした。
女性ジャズシンガーの大御所、マーサ三宅さんが客席の前の方で見ていらっしゃったのも覚えています。 もう、僕がこのジャズ・ビッグ・バンドでギターを弾くことはありませんが、この時学んだ事はいつまでも大事に持ち続けたいと思っています。

万歳!Jazz Big Band!

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久留米時代とチェッカーズ(長編)

今回は僕の故郷にまつわる話を書いてみます(かなり長編になってしまいました)。

僕の故郷は、九州の福岡県久留米市です。
城下街で絣(かすり)とゴムが有名な街、現在の人口は約30万人です。
僕はこの街で生まれ、高校卒業までこの街で暮らしていました。

久留米で有名な方は、産業界ではブリジストン創業者の石橋正二郎さん(故人)。石が「ストーン」、橋が「ブリッジ」、それで「ブリジストン」ですね。
芸能界では、「上を向いて歩こう」の中村八大さん(故人)、鮎川誠さん(シーナ&ロケッツ)、石橋陵さん(俳優・元ARB)、黒木瞳さん(女優)、藤吉久美子さん(女優)、松田聖子さん(歌手)、チェッカーズ(バンド)、田中麗奈さん(女優)。
またミュージシャンでは、ドラマー佐野康夫君(ドラムマガジン5月号の表紙)、ギター&ウクレレの近藤研二君(栗コーダーカルテット)。
スポーツ界は、中野浩一さん(自転車)、坂口征二さん(プロレスラー・俳優の坂口憲二さんのお父さん)、といろいろな人がいます。

僕が中学~高校の頃、同じ時代を過ごしたのは、チェッカーズの面々。中でもフミヤさん・モクさんは同じ中学校で2つ先輩、ナオちゃんは同級生で中学3年の時に一緒に文化祭で演奏しました。
当時ナオちゃんはまだサックスではなくベースでしたね。
また佐野君は高校の1つ後輩で、大学時代まで一緒にバンド活動していました。
当時、久留米の中学生ドラマーで1・2の座を争っていたのが、徳永君(チェッカーズのクロベエ・故人)と佐野君でした。2人ともブラバン出身。
近藤君は、僕の2つ年下で中学3年生の時にイカシた4人組みのロックバンド(ダブルウィンク)を作っていました。

久留米には、ヤマハ系の楽器店が2つあり、毎年夏には九州ブロックのヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト「L-Motion」が開催されていました。
東京では、「EastWest」でしたね。
このL-Motionのジュニア部門(20歳未満)の決勝大会に久留米代表として選ばれたのが、’81年は「チェッカーズ」と「ダブルウインク(近藤君のバンド)」と「シュー(佐野君&僕が翌年入るクロスオーバー系バンド)」というバンドでした。
この年の決勝大会では、チェッカーズが見事ジュニア部門グランプリ。
そして、たまたまこの年は、ヤマハ合歓の里で全国大会「LMC(ライト・ミュージック・コンテスト)」が開催されました。
ここで、何とチェッカーズがジュニア部門グランプリ、そしてシニア部門でも審査員特別賞を受賞しました。

さて翌’82年の久留米代表は、2年連続でチェッカーズを除いた同じバンド、「ダブルウインク」と「シュー(ドラマーが佐野君、ギタリストが僕に交替)」でした。
チェッカーズは既にゲスト扱い。ヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンとの契約話が進んでいた頃です。
「シュー」は、ギター・キーボード・ベース・ドラムの4人組のクロスオーバー系バンド。使っている楽器は全員ヤマハ(笑)。
僕のギターは赤い「SG-1000」、キーボードはエレピの名器「CP-80」、ベースはサンバーストの「BB-1000」、佐野君のドラムは「YD-9000」。
皆バイト頑張ったんです。でもこれじゃ、まるでヤマハの広告塔、楽器店の思うツボですよね(笑)。
だから、当時ヤマハの人は僕達たかだか4人の高校生をとても可愛がり、大事に扱ってくれました。九州の高校生版「カシオペア」として(笑)。

当時の久留米は、アマチュアバンドが隆盛、たくさんのバンドが存在していました。ロック系のバンドがほとんどです。
そんな中、僕達は高校生の割りには難しいクロスオーバーやらジャズやらを生意気そうにやっていました。
しかし当時の久留米のアマチュアバンド界は、アメリカン・グラフィティさながらにいわゆるドゥワップ系ロックンロールバンドが全盛。
市内には何と20バンド以上も存在していました。皆、お決まりのスタイル。髪の毛はリーゼントで洋服は黒いタキシードに蝶ネクタイです。
歌うのも、コースターズ(’50年代にノベルティソングで人気のあった黒人ドゥワップ系ロックンロールバンド)とシャナナ(70年代の白人&黒人ドゥワップ系ロックンロールバンド。映画「グリース」サントラに曲あり)が中心。
市内の小ホールでは、毎週末にダンスパーティが開かれていました。

このダンパのバンドの中で最もイカシていたのが、チェッカーズでした。
彼らはコースターズの英語の歌詞を変え、オリジナルの日本語の歌詞でコミカルさも加えて歌っていました。
16fumiyaそもそもフミヤさんは、中学3年の頃にバンドを始めました。そのバンドはキャロルとクールスのコピーバンドでした。僕が生まれて初めて観た生ライブは、中学校の文化際でのフミヤバンドでした。
その後、フミヤさんは高校に進むと市内No.1のロックンロールバンド「カル・コーク」のサイド・ボーカルとなりましたが、あっという間に人気はメインボーカルよりも上になりました。
とにかく、他の誰よりも歌も踊りも上手かったし、顔も可愛かったので人気はNo.1でした。そして翌年の高校2年の時、チェッカーズを結成。結成当初は7人ではなくもっと大所帯(10人)でしたが、その内に例の7人になりました。

とにかくチェッカーズはショーの作り方が上手く、市内の商店街のイベントのような短い時間のステージでも、ちゃんと歌唱力のあるメインボーカルとコーラスを聞かせ、踊りも見せ、笑いも取る、3拍子揃ったバンドでした。
’81年にチェッカーズがヤマハの全国大会でスポットを浴びたのも当然だったかも知れません。
そのチェッカーズがヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンと契約し、’83年の3月末にいよいよ上京し、目黒のヤマハ音楽振興会の寮で生活を始めました。僕は同じ頃、大学進学で上京しました。

この頃、久留米の連中は、僕を含め「きっと、ラッツ&スター(当時:シャネルズ)の弟分のような位置付けで、ドゥワップ系ロックンロールバンドの本道を狙って売り出すんだろうな~。」と思っていました。
しかし、ヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンが狙ったのは、そうではありませんでしたね。
’83年の9月にデビューしたチェッカーズは、髪の毛がリーゼントでも、洋服が黒いタキシードに蝶ネクタイでもなかった・・・。
本人達も、最初はあのアイドル然としたスタイル(チェック柄の衣装、チェッカーズカット、ベレー帽)には相当抵抗感があったようです。

ここから先は皆さんがご存知のチェッカーズです。
でもこの時のヤマハ音楽振興会とポニーキャニオンの最初の売り出し戦術が効を奏し、チェッカーズは’84に大ブレイク、結果として’80年代に一つの時代を築けたんだと思います。
’92年の解散時のいざこざや一昨年のメンバー内の確執話などもあり、良いことばかりではなかったはずですが、それでも皆本当に良く頑張っていたと思います。

やっぱり久留米の星です。チェッカーズ万歳!

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万歳!Rock'n Roll~Oldies Band!

もうすぐ夏も本番ですね。

そこで、去年の今頃の思い出話をちょっとだけ・・・。

当時、僕は大所帯のRock'n Roll~Oldies Bandに参加しており、音楽面でのリーダーみたいな役をやってました。このバンドは、なんと9人編成(男性Vocal,女性Vocal,女性Chorus×2,Guitar×2,Bass,Piano,Drum)でした。

このバンドで、10月の体育の日に世田谷区烏山にある区民ホールにて、とあるミニコミ誌主催のライブ・イベント(お客様は地元の方が400人も集まってました)に出演しました。
演奏したのは、Elvis Presley,Chuck Berry,The Ronettes,Connie Francis,The Beach Boys他諸々のRock'n Roll~Oldiesのカバー曲です。

ちょうど去年の今頃は、毎週練習に明け暮れていたんですが、とにかく練習は大変でした。何せ、9人もいましたから(とっても個性の強いメンバーが・・・)。

9人各々のパートのアレンジから女性コーラス隊の振付迄、やることは満載、一曲を仕上げるのにもそれなりの時間が必要でした。

僕としては、The Ronettesのあの壮大なPhil Spectorサウンドにいかに近付けるか、そしてThe Beach Boysの複雑なコーラス・パートのコピー、には苦労しましたね~。

明るく華やかなステージにしたいと衣装にも気を遣いましたね。女性ボーカルはポニーテールと赤、女性コーラスは鮮やかな黄色のムームー、男性ヴォーカルは純白のシャツ、男性楽器陣はピンクのストライプのシャツ、Rock'n Roll~Oldies Bandなのになぜか男性陣のリーゼントはなし(笑)。

でも、9人全員で頑張った甲斐あり、本番では楽しいライブが出来ました。

いろんな事情があり、もう同じメンバーでのライブは出来ないんですが、その内、また新たな方達と素敵なRock'n Roll~Oldies Bandを作りたいな~とも思っています。

とにかく、Rock'n Roll~Oldiesは楽しいですよ。

万歳!Rock'n Roll~Oldies Band!

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